勝手に擬人化プロジェクトアーカイブ

布団太鼓としての日和佐のちょうさ — 大阪・堺とのつながり

徳島県美波町、日和佐八幡神社の秋祭りに出る「ちょうさ」は、大阪・堺の布団太鼓の仲間です。江戸後期の年代を伝える屋台が今も担がれ、しかも海に入る。大阪・堺・泉州をはじめ、布団太鼓や太鼓台、だんじりが好きな方に見てほしい日和佐の太鼓を、当サイトの記事からまとめました。

堺から直接伝わった布団太鼓

四国の太鼓台というと、香川・愛媛の大きくきらびやかな「ちょうさ」を思い浮かべる方が多いかもしれません。当サイトの作者は、日和佐のちょうさは讃岐系とは別物で、「堺からダイレクトに伝わっている」布団太鼓だと考えています(広義のちょうさで説明可能か?、マンガ公開しました(第18回))。運行の仕方も、大阪の天神祭に似ていると書いています(マンガ公開しました(第15回))。

堺型の目印とされる、四本の柱が地面まで通る「通し柱」を確かめた町もあります。戎町と西新町は、雲板が屋根のようで大阪仕様の雰囲気ながら、下にもぐると四本柱が地面まで通っていたので堺型(【情報求む!】戎濱(恵比須浜)のちょうさ)。中村町は「天保8年(1837)製の堺型」と紹介されています(彫刻を見てみよう(中村町))。ただし、海に入るので下回りの改修が多く、「大阪型」と「堺型」が混じったような形で、型を断定するのは難しいとも書いています(それっぽい?という認識のズレ)。

江戸後期の年代を伝える屋台

記事に出てくる、各町のちょうさの年代です。記録や言い伝えによるもので、作者自身も「確実性というのは誰にも知れぬこと」と書いています(マンガ公開しました(第18回))。

町年代出典
戎町寛政7年(1795)から奉納。今の屋台は大正10年に作り替えたという話も戎町ちょうさ・220年!
東町製作年は不明。桜町より古いとされる【11回目】実質?名目?誕生日
桜町享和4年(1804)製。初代西新町の屋台を昭和21年に譲り受けたもの【11回目】実質?名目?誕生日
中村町天保8年(1837)製彫刻を見てみよう(中村町)
本町天保9年(1838)に作られた記録があるそう彫刻を見てみよう(本町)
奥河町嘉永4年(1851)の衣装箱が残り、その頃の作とされる彫刻を見てみよう(奥河町)

作者は、大阪に残る布団太鼓でいちばん古いものが1855年頃とされることを挙げ、「それよりもさらに古い日和佐の布団太鼓にこそ、原型を見ることができるのではないか?」と書いています(それっぽい?という認識のズレ)。そして「古い堺型や大阪型の原型があるので、ぜひとも大阪の方には、視察に見に来てほしい」とも(どう見てもメード・イン・堺)。

海に入るための形

日和佐のちょうさは、海に入ることを前提に組まれています。屋台の下の土呂幕(どろまく)がなく、勾欄や縁板の細かな彫刻もありません。作者は、海水の流れをよくするため、あえて彫刻を施していないのだろうと見ています(それっぽい?という認識のズレ)。中型で房も小さく、機動性を重んじた作りです(広義のちょうさで説明可能か?)。

すべてトンボが下や横を向く「雌太(めんた)」なのに、雄太のようにすっきりしているのも、海で禊(みそぎ)をするうちに自然とそうなったのでは、と作者は考えています(ちょうさは男か女か?)。担ぎ方も、多くの布団太鼓が四拍子で足並みをそろえるのに対して、日和佐は二拍子です(広義のちょうさで説明可能か?)。

「ちょうさ」は大坂の掛け声から

「ちょうさ」という名前について、作者がいちばん有力と見ているのは掛け声説です。文政4年(1821)の『浪速方言』には「てうさゃようさや…大坂にて、山車(だんじり)を挽き歩く時囃子の言葉なり」とあり、延享2年(1745)の歌舞伎『夏祭浪速鑑』にも「ちゃうサやちゃうサや、ようサようサようサ」と出てきます(ちょうさの語源は、やはり掛け声?)。日和佐のちょうさが大阪系の布団太鼓であることと、よく合います。

ほかでは見ない布団太鼓

堺型のだんじりも

日和佐の祭りには、布団太鼓のほかに一台だけ、だんじりも出ていました(今は運行していません)。寺込のだんじりは、江戸末期〜明治初期に堺の二代目・西岡又兵衛(堺彫又)が作ったと伝わる堺型だんじりで、大正6年に日和佐へやってきました。→ 寺込のだんじり

見に来るなら

祭りは毎年10月上旬〜中旬の2日間。ちょうさが海に入るのは、神社のすぐ横の大浜海岸です。祭りの流れは日和佐八幡神社の秋祭りとちょうさに、場所は会場案内にまとめています。その年の日程は日和佐八幡神社のサイトでご確認ください。

このページは、当サイトの2013〜2018年の記事をもとにまとめたものです。年代や由来には伝承や作者の推測も含まれます。

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