彫刻を見てみよう(桜町)
と、その前にこの太鼓屋台は、もともと「西新町」のものだったので、こういうものを作った、という町の性格とか当時の雰囲気を前提に考えてみたいと思います。
はじめは正面。竜であります。
正面右側・東は、唐獅子。
正面左側・西は、鳳凰←朱雀かも。
そして背面は、虎。
初代・西新町のものだったということだけあり、かなり時代のついた雰囲気。全体的に彫りが可愛かったりするのは、太平楽な江戸時代の雰囲気を引きずっている証拠で、東町とどこか似ている\(^o^)/
垂木がちょろっと飛び出した堺型の原型は、現在の西新町につながっていきます。
見どころは、木鼻の獏(バク)。
たいていは狛犬なのですが、中村町の木鼻も獏だったりします。ただ、初代・西新町と中村町の制作された時代などを考えると、魔除けの他に、激動の時代へ入っていく中で平和への願いを込めていたのかもしれません。
(獏は、鉄を食べるので平和な時代でしか生きていけないそうです)
作られた当時の町の雰囲気としては、当てずっぽうですが、旧街道沿いの宿場町的場所で住宅地でもあった、と考えると、彫られた動物たちに商売繁盛とか円満などを込めていそう。
また、「唐獅子牡丹」と「竹に虎」という組み合わせの「安住の地」という意味や、竜と虎が対になって力の誇示をしていそうで、いかにも西新町のものだった、ような出来であります。
そんなこんな屋台が桜町のもとへやってきて、大事に使われて今に至るのだと思います。
この記事では詳細は書きませんが、西新町から桜町にやってきた当時は、布団の上に「入り母屋」を被っていたそうです。
後から足したのか、布団台の上に黒く塗られた布団台がもうひとつあるのも特徴的だと思います。しかも、その布団台には、格子状の穴が空いていて空気抵抗ばっちりといったところでしょうか(汗
こうして見ると、実にオリジナリティーあふれる太鼓屋台であることがわかります。
ここでいうオリジンとは戦後個人主義のいう独創性ということではなく、西から桜へという、自分のオリジン(源泉)が自分であるはずがないというわきまえをもって、手を入れ、元のベースに習っていく、そういった桜町の継承の仕方に安心感があるものであります。
いま、いいこと言ったヽ(^o^)丿
ただ、調子にのってよけいなことを書くと、桜町の「隠し額」が隠し額として機能していないこと。新しい町なのでわかっていないのか、あえてそうしているのかは定かではないのですが、本来、これは布団締めと布団台の隙間を隠すパーツですから、布団締めの上にバッジのように付いているだけなのも面白いポイントであると思います。
この屋台の後に、西新町は「どうしたんだ?!」というくらい細かな彫刻を黒檀に彫って、巨大な仏壇のような屋台を作るわけですが・・・、
続きは次回でm(__)m
それでは、良いお年を〜( >д<)、;'.・ ィクシッ