突然ですが、こちらは現在の戎濱のちょうさ。

そんでもって、こちらが約70年ほど前に撮影された初代・戎濱のちょうさになります。

戎濱が火事によってちょうさを新調したことは、みなさま、周知のことと思います。
ただ、作りなおしたということは、原型となるモデルを引き継いだのか、はたまたモデルチェンジしたのか?という素朴な疑問がありました。
初代・戎濱が写った写真は何枚も目にしましたが、どれも遠巻きに収められていて何がなんだかわからずじまい(-_-;)
そんなおり、博物館行きとなっていたTさんの写真をいただくことができ、モデルが判明したというわけです。

改めて写真をご覧ください。
現在のものよりも大きく、周囲の大人と比較しても、東町程度の規模であったことがわかります。
これは、いわゆる「大阪型」といわれる古いモデルのように思われ、フレームは奥河町とそっくりであります。
そして、雲板の天井は、現在の桜町のように格天井となっており、戎濱は、
「大阪型」から「淡路型」へモデルチェンジしたことになります。
肝心の彫刻部分は写っておりませんが、当時のことを知る方の話では、前面には戎濱ということでえべっさんが彫られていたとのこと。
他の方は、桃太郎や金太郎が彫られていたとおっしゃっておりますが、鯛と竿も持っていたとのことなので、えべっさんでまず間違いないと思います。
ただこれは、前面の彫刻なので、他の面には、桃太郎や金太郎が彫られていたのかもしれません。
総じて「可愛らしい感じ」だったそうなので、真に受けて想像しますと、東町や当時の西新町(桜町)の彫刻のように太平楽な時代を引きずった雰囲気だったのかもしれません。
また、戎濱という集落が江戸後期に出来、早くから日和佐に溶けこむために祭りに関わっていたという話を勘案すると、少なくとも東町〜西新町あたりが奉納を始めた時代には、戎濱のちょうさも存在していた可能性があります。
(中村町が奉納を始めた頃には、今のように輪番ではなく参入順だったそうですが、戎濱は境内に納屋を持っていなかったため、いつも最後だったようです)
これは、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、この写真は、足回りが現在のものよりも高いように見えます。
昔から海に入らなかった戎濱の性格を考えると、現在とは違って土呂幕があり、大阪の太鼓のように足が長かったのではないかと推測できます(^^ゞ
それはそうと、こちらは同時期に撮影された戦時中の八幡神社境内の写真であります。

宮ノ森というだけあって、海の横なのに本当に森みたいであります。
中村町の太鼓納屋が見当たりませんが、この当時は現在の戎濱辺りにあったのだそう。
日章旗と旭日旗を振る練習であります。
後知恵の戦後民主主義に洗脳されてしまった方には異様な光景に映るかもしれませんが、別に軍国主義の暗黒時代というわけではなく、案外、子供は快活で食べ物に困ったこともないそうで、歴史に筋を通すという意味でも貴重な写真であります。
ついでに書いておくと、日和佐のちょうさに旗が掲げられるようになったのは戦時中からだそうで、戎濱をのぞく他の町は日章旗と旭日旗を掲げていたそうです。
ところが、敗戦後GHQに日章旗を掲げることを禁止され、一時の自粛の後、各町オリジナルの旗を掲げるようになっていった経緯があります。
同じ戎の名をもつ戎町とて、三蔓柏を掲げるようになったのは、昭和の中頃なのだそうで、当時を知る人いわく、当時から変わらずに「三蔓柏」と「丸に違い鷹羽」を掲げていたのは戎濱だけ。別の視点で言えば、当時からイケイケドンドン鬼畜米英的に旗を掲げ続けたのは、奥河町で、実に芯の強い町であると言えるでしょう。
初代の写真に戻ってみましょう。

よく見ると、旗の掲げ方が今とは違って、ぎこちない感じもどこかあります(汗
おそらく、当時の気分としては、国威発揚もあったのかもしれませんが、しだい、大きく見せるための飾りへと変化していったのではないかと思われます。
これは、本場の布団太鼓のように巨大な親房を持たないゆえの美意識なのかもしれません。
長々と書き散らしてしまいましたが、いずれにせよ、当時を知る貴重な取材となりました。
情報や資料をいただいた方々、本当にありがとうございました〜。
記事のまとめは、そのうちマンガでやりたいと思いますm(__)m