日和佐八幡神社・秋祭りの太鼓屋台の彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第六弾。

今回は、平成最後にして一番太鼓の「中村町」であります。
まずはじめに、基本スペック。

天保8年(1837)製の堺型。ぱっと見、日和佐のちょうさっぽくないデザインとして、

- 愛媛香川にみられる「宇摩型」のトンボ。
- 八幡神社なのに「左二つ巴」。
- 隠し額の雲と紋が対角に色違い&看板に町名ではなく「八幡宮」。
と、およそこんなところ。

さらに特徴は、蛇腹支輪(じゃばらしりん)と彫刻の裏の青い部分。青い部分は、

装飾のための硝子が入っていたそうであるが、割れると危ないので今は色だけ塗っているそう。蛇腹支輪の上には、桜町同様、布団台が追加で乗せられており、どこかのタイミングで改修されたと思われます。でなければ、あの場所に支輪など必要ない?!
では、彫刻も見ていきましょう。

正面は、龍。

背面も龍!!う~む、豪華。

西側(左面)は、金鶏二羽とよくばりな彫りであります。

東側(右面)はというと、なんだこれは・・・?
反対側が金鶏と菊だったので、額面通り捉えれば菊の類(金鶏菊)かもしれませんが、観賞用として日本に入ってきた時期より中村町の方が古いため、ハルジオンっぽく見えなくもない。しかし、これも時代が違うので、ヒメジョオンということにしておきましょう(汗)
花の中に、ハエだかアブだかの虫が飛んでいますが、当時の感覚では、美と醜の結合により、真の美を表現した意義深いものであったのかもしれません。
本当のところはわかりませんが、、、誰か、ご存知の方いらっしゃいましたら教えてくださいm(__)m
ワイハ シッテイル アンガイ イミナド ナカッタリスルコトヲ・・・(爆
そして、そんな謎の合間を全面にお構いなく飛ぶ千鳥の彫りと、補修によって付け足された新しい千鳥のコントラストもまた、愛嬌があっていいでしょう!
中村町のちょうさは、日和佐のちょうさが作られた時代を見ていく上でとても参考になり、いっこ下の「本町」との比較にて平和な時代から激動の時代へと入っていく端境期の発想が込められております。

注目すべきは、木鼻の獏(バク)。たいていの町は唐獅子なのですが、魔除けの他に、激動の時代へ入っていく中で平和への願いを込めて彫られたものであるのかもしれません。(獏は、鉄を食べるので平和な時代でしか生きていけないから)
太平楽な時代は、彫りは少し可愛らしい。世の中が不穏になると、平和を願う彫りになる。激動の時代は、彫りが厳つい。そういうテキトーな公式に当てはめると、中村町が作られた時代背景がなんとなく想像できそうで勉強になるなぁ~(*´・ω・)(・ω・`*)
日和佐ちょうさの都市伝説として、戎町の谷屋(たんにゃ)が失敗やプロトタイプも含め、他所町にちょうさを配り、そこから改良や模範で作られたとも云われており、初代戎町(志和岐のちょうさや現・桜町)に源流が見られるのも事実。
ところが、中村町はそういった雰囲気が少なく、あくまで独自で作った感があるのが興味深いところであります。あくまで想像ですがね・・・!
まあ、そこまでマジマジ見る必要はないのですが、平成最後に一番太鼓を飾る中村町を見るに当たって、ここに記した点を観察していただけると、より親しみを持って参加できるのでは、あーりませんかね( ˘ω˘)