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ちょうさのこと

ちょうさは男か女か?

 お祭り擬人化をノリではじめて、はや三ヶ月余りが過ぎました。

 当初は、ちょうさを萌えキャラにしたら怒られるのではないか?とか思ってやっておりましたが、おおむね好意的に見ていただいており感謝感激雨あられ(古)であります。

 中には、ガチ祭りに萌えか!?という意見もあるかと思いますが――、
 突然ながら、みなさま、ちょうさ(布団太鼓)にも雌雄があるのをご存知でしょうか?

 大きく分けて、雄太(おんた)雌太(めんた)といいまして、見分け方としましては、はトンボが上を向いているのに対して、は下や横を向いております。

 

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(掲載:河内の銘太鼓台)


 やはり、雄の方がトンボにも勢いがあるのですね\(^o^)/チ◯コみたいだー!!

 

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(日和佐のちょうさは、すべて雌太)


 一方、雌の布団太鼓は、装飾が多めに施される傾向があります。

 つまり、この分類的にいいますと、日和佐のちょうさは女の子なわけでして、この辺は、確信をもって萌えキャラで差し支えないと思います。

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 ところがどっこい、日和佐のソレは、雌太なのに雄太のようにシンプルな形状をしており、水引幕(みずひきまく)や高欄(こうらん)、土呂幕(どろまく)がそのようなのも特徴的だと思います。
 おそらく、日和佐の娘たちは海水浴(禊)をしますから、しぜん、そういう加減になっていったのではないでしょうか?

 そう考えると、大阪型堺型が混じり合い、そこへ堺系京都系の彫刻が施される。雌雄も判然とせず、実に独自に進化したちょうさだなと思う次第でありますヽ(´エ`)ノ

 日和佐の屋台は、実にガラパゴス化していて面白いですぅ。

2014/01/15 ちょうさのこと   admin

ちょうさの語源は、やはり掛け声?

 先日、T様にいただいた『中村町太鼓年表』の昭和25年の欄に興味深いことがありました。

 そこには、「調双」と書いて“ちょうさ?”と呼んだ記載があった、という記載なのですが、これはもしや「ちょうさ語源説」の新たな手がかりでしょうか?!

 世間一般でいう“ちょうさ”の語源は、香川は豊浜町の『張子公(儒学者)の功績をたたえて「張さん」と呼ぶようになったのがはじまり』であるとか、七重車(しちじょうしゃ)の「七」がとれた呼び名であるとかさまざま。

 ネットでたまたま見つけた南新桜というブログにも、張子公は正式には張載(ちょうさい)と呼ばれており、広島のそれもチョーサイ(長歳・長生きという意味も)と呼ぶらしいので、そうではないかと書かれております。
 また、儒学の影響を受けた大塩平八郎が乱を起こすさいの記号として張子を用いたであるとか、門弟や残党が大塩平八郎を偲んで掛け声として使ったなど、収集がつかないありさま。

 結局のところ、どれもこじつけの域をでなくて、スルーしてしまいそうな心境であります(ヽ´ω`)

 一番しっくりくるのは、ただの掛け声という考え方で、徳大総合学科・文化人類研究室の資料にもそういうことが書いてあります。

 少し引用すると、

 文政4年(1821)の『浪速方言』に「てうさゃようさやてうさゃようさや、大坂にて、山車(だんじり)を挽き歩く時囃子の言葉なり」とあります。
 延享2年(1745)作の歌舞伎『夏祭浪速鑑』長町裏殺しの脚本には「御輿を担ぎ出て来り、ちゃうサやちゃうサや、ようサようサようサと云ひながら舞台を廻り」とあります。
 また、嘉永3年(1850)の西沢一鳳『皇都午睡』初編上の巻には「上方にて物を運ぶ掛声にゑいさやちょふさと云ふ」とあります。

 つまり、この論文は、ただの掛け声と方言だ!ということで深く考えるなということでしょう。

 確かに、「ちょうさじゃ」という掛け声があっても、布団太鼓を指しているわけではなくて、神輿だったり鉾だったりするのは不自然な感じもするでしょう。
 お隣の淡路島では、どう見ても布団を重ねたちょうさっぽい屋台のことを“だんじり”と呼んでいるところもあるわけでして、一概に屋台のことではないようなのです。

 1847年、弘化4年からの「太鼓割」には「ちょうさ」という文言がなく、すべてが「太鼓」になっております。
 つまり、この時代にも存在していたであろう日和佐のソレは、“ちょうさ”という呼び名ではなかったのではないでしょうか?
 堺からダイレクトに伝わり、年代的にも歴史のいわれにしても“布団太鼓”と呼んだ方がたぶん自然であろうと思うわけです。

 ところがそこへ、同じ四国。讃岐型の歴史が降りてきて、しかも、大阪に出向くと「ちょうさちょうさ」と言っている。
 大阪に憧れる徳島人からすれば、これは真似しないとアカン!となるのは当然の心理状態だったのかもしれません。

 筆者にもおぼえがあるのですが、「よいやっさ」とか「ちょいやっさ」という掛け声と、差し上げを意味する「さっせー」が連続すると、方言独特の着崩しか、「ちょ〜いやさ〜せ〜」という音になり、しだい「ちょうさ」と聞こえるようになりました。

 本来、日和佐の「ちょうさですよ〜、勇んで行きますよ〜」という「ちょうさじゃ〜、いっさんじゃい」は、そういうふうには聞こえにくいですし、差し上げ間際の掛け声など、「日和佐」という言葉をはぐらかしたような発音で自信なさげに聞こえる。「さーせーさーせー」は「やーれーさーせー」と変形して何だかよくわからない言葉に。

 たぶん、こういう曖昧さの積み重ねと、ゆるやかな口伝での継承が言葉を取りこぼしているような感じです。


 前置きはさておき、冒頭の「調双」とかいて“ちょうさ?”の謎なのですが――、

 もしかしてだけど〜♪もしかしてだけど〜♪

 「双調」と「調双」の読み間違いなんじゃないの〜?

 というのが結論です。

 双調(そうじょう)とは、雅楽の六調子のうちの表現方法なのだそうで、洋楽の「ハ長調」や「イ短調」といった感じでしょうか。
 中村町は、太鼓の音にこだわる町なので、この頃も、どういうふうに演奏するか?ということを試行錯誤した結果、雰囲気だけでも!というノリが右書きを間違えて読ませたか、あえて右書きとして読んだ、もしくは、記録の清書で間違ったか、そういうミスへの誠実さが謎を深めている感じもしております。

 豊原統秋著『体源抄』には、調子のイメージをこんな風に例えております。

平調  春風に柳の倒れかかるごとくこれを吹くべし。
盤渉調 何に例えつべくもなし。ただ静かに延べて吹くべし。いずれよりも、この調子を延べて吹くべし。
黄鐘調 銚子に澄みたる酒を入れたるを見るがごとし。
太食調 板敷きの下にてコトヒノ牛の角突きをするがごとし。
壱越調 明障子に砂をうつがごとし。
双調  秋草の花咲乱れたる中に幽玄なる男、大口ばかりにて優し気ながら刀を差し、柄を握りて立つごとく吹くべし。

 なるほど、いわれてみれば、中村町はそういうイメージで叩いているのでしょうか?いないでしょうか?

 また、これらの調子は「陰陽五行(いんようごぎょう)」にも関わりがあるそうで、それぞれに対応する季節、音、色、方角などが事細かく決まっているそうです。
 ちなみに、双調は春・東方・木音・青色。ということらしく、中村町のはちまきが青っぽいのは考えすぎでしょうか(+o+)

 ともあれ、おそらく、張さんとは明らかに関係のない地域でも「ちょうさ」という感じの掛け声や屋台があることを勘案すると、ただの掛け声のような気がしてなりません(=_=)

 この辺は、「百一匹目のサル」ということで収まりませんかね?

2014/01/14 ちょうさのこと   admin

入母屋は必要か?

 先日ブログで、日和佐八幡神社のちょうさをみて、伝統が失われつつあるという旨の指摘をされている方がいた。

 興味深いのでふむふむと読んでみると……、おそらく八幡神社のHPで入母屋付きの西新町のちょうさを見た後、戎濱のちょうさに名残を見出し、残っているのはここだけだ!といった感じの〆でした。

 入母屋(いりもや)とは、屋根のこと言い、↓の写真のような感じです。こんなものを昔の西新町はかぶって運行していて、さぞ重たかったことでしょう。

 

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(日和佐八幡神社:歴史写真館より)


 結論からいうと、この解釈は誤りであると思います。

 なぜなら、戎濱のそれは祭り前日の搬入による甘露対策の名残と、現代においては、火事へのトラウマから雨の他、日差しにも過保護になり、しかも、他所の太鼓よりも小柄なため、少しでも大きく見せようと傘をかぶっているのが真相であろうと思います。
 これは、戎濱の方から聞きました。

 だから、雨傘は伝統かどうかは怪しいし、なにより、西新町と桜町しかかぶっていなかったという事実が気まぐれ性を証明していると思います。新しいものが大好きで、良いものは取り入れて少しずつ変えていくという、この二町の、時代の一場面と考えた方がしっくりくるのですが――、本当のことは知りませんm(__)m

 

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(戎濱の傘)


 で、ここからが本題なのですが、そもそも、ちょうさに入母屋は必要か?ということ。

 もう見慣れてしまっているので、いまさら布団の上に屋根とは妙な感じがするのですが、ちょうさの形は、実に合理的だなと思うわけです。

 諸説では、なぜに布団か?と問われれば、カミ様が休むためとか、豊作を願う「田」であるともいわれております。
 カミ様と交信するためには、昔から太鼓の音と相場が決まっており、ちょうさの場合、太鼓の音を大変貴重だった布団を五枚も重ね、その中心から天に向かって響かせているという構造なので、やはり、布団太鼓は、神輿の後をちょろちょろとついて行くだけではなくて、カミの依代だなぁと思うわけです。

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 少し脱線しますと、八幡神というのは他のカミ様とは少し違って、よくしゃべり、祭りが好きで、子供が好きで、腕っぷしのいい、国家鎮護のソレというイメージがあります。
 だから、御旅所に連れだされても、その場でじっと座っているとは到底考えにくく、音霊を響かせながら練っているちょうさの上で祭りの見物でもしていそうな感じです。

 昔々の日和佐の祭りでは、御旅所を現在の大浜海岸ではなく、軍人墓地だったり鳥居横に置いていたそうです。
 境内に御旅所が置かれると、ちょうさもそこから離れるわけには行かないので、海で禊いで観客を喜ばせ、お浜入りすることができなかったようです。
 しかし、先にも書いた八幡神の性格上、たぶん、御旅所などどこにあってもちょうさに寄ってくる感じがして、福田恒存ふうに言うと『物理的の必要』など適当でええやん!とか言いそうなのが、懐の深い日本のカミ様なのではないでしょうか?

 

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 そんなこんな、日和佐のちょうさは、その布団の上に天幕(てんまく)と呼ばれる目隠しみたいなものがついていて、ますます、カミ様と何やら話し込んでいるような気がするわけです。

 

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(構造的には、たぶん要らない天幕)


 なので、雨天はしかたがないとして、ちょうさの上に屋根などついていようものならば、カミとの交信が遮られ、うまくお蔭が受けられない感じもするわけでして――、私は入母屋いらないに一票!
 戎濱は、もうトレードマークだから、あれはあれで( ・∀・)イイんじゃない!?

 それにしても、ちょうさの形がなぜあういう風になっているのかは、かなり根深い謎のようです。
 ただ、合理のまともな前提は合理以外の歴史的常識からくるものなので、日本人が日本的に生き、その構造を感じられるように時間的持続を大切にしていかなければならないのかなぁ(^O^)/と、都会の田舎かぶれをからかったりからかわなかったり……。

2014/01/09 ちょうさのこと   admin

戎濱のこと〜初代・カラフル・現在〜

 本日は、中村町のT様から貴重な資料を送っていただきました!

 その中の写真に、ぜひとも見てみたかった初代・戎濱かの有名な新調まもないカラフルな布団の写真まで!!
 掲載許可をとってないので写真は載せず。ご了承くださいm(__)m

 いや〜、実に衝撃的な姿であります。

 古い写真なので、細かなところまでは確認できなかったのですが、初代は“大阪型”のように見えました。形は奥河町っぽくて旗が左右逆だったようです。
 そのためか、“違い鷹の羽”の紋が“丸に右重ね違い鷹の羽”になっているのですが、やはり新調などのさいに左右が入れ替わり、そういうことは適当でよかったのかもしれません。

 よく見えないのですが、シルエットの彫刻は、かなりスゴイっぽくて、戎町や西新町もビックリの出来栄えだったのではないでしょうか?

 カラフルな時代は、上から布団が緑→黄色→赤→白→青。それを赤の布団締めとトンボで締めているわけで……、反対されたのもわかります(ToT)
 写真では、旗が日章旗だったので、やはりいろんな意味で改革とはっちゃけと黒歴史(汗)が重なった時代だったようです。

 まあ、新調後しばらくは、業者がカスタマイズに規制をかけるそうなので、ある意味、しかたがなかったのかもしれません。



 他にも、中村町の年表もいただいて、いろいろと試行錯誤して現在の形になっているのだと時代の変遷を垣間見ることができました。

 年表を見ていて気になったのですが、戎濱はいつ火災したのか?ということ。
 日和佐八幡神社のホームページには、昭和41年と書かれているのですが、年表には43年とあります。

「どうせ書き間違いだろう……( 一一)」

 とか思っていたのですが、41年も戎濱は不参加とある。理由は不明。
 一応、年表を疑ってみたのですが、戎濱の方と保存会会長も43年だとおっしゃっていたので、たぶん43年火災だったのでしょう。

 とすると、この2年のブランクは一体なんぞや??

 謎が謎を呼ぶ、ちょうさの歴史なのでありました。

 ご存知の方、いらっしゃいましたら情報よろしくお願いしますm(__)m

2014/01/07 ちょうさのこと   admin

神紋とか家紋とか

 先日、奥河町のW氏と話し込んでいたら、なぜに中村町の「紋」が“二つ巴”なのか?という話になりました。

 

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 普通たいてい、八幡神社の祭りだから“左三つ巴”の紋が入っているはずなのに、二つとはどういうことだ!?

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 紋の由来は比較的簡単に検索できますが、なぜそれを使っているのかまでは、その町に聞いてみないとどうにもこうにも……。という感じの結論に (´・ω・`)

 

 小難しい『江談抄』という物の本には、巴の数が左が三つ右が二つというふうに、太鼓の位置関係を示す決まり事だったそうです。それがいつしか、卍の向きの影響を受けて臨機応変に右回りだったり、左回りだったりして拡散したとのこと。

 つまり憶測では、中村町は、八幡神社が左」ならば、うちは「右」だ!と位置づけをするために自ら進んで基準となったのではないか?太鼓にポリシーのある町ゆえのトレースと決意表明も兼ねているのか?!と、勝手な想像で遊んでおります。

 もしくは、中村町の巴の向きも独特ですが、旭日の中に「」と書いたり、 台座のカスタマイズをしたりと、デフォルトをよしとせず、いじることが大好きなこの町特有のささいなアレンジ?だったのではないかと。

 

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 かくいう奥河町のそれも、天幕には“三つ巴”が付いているわけですが、打子の衣装にはなぜか “二つ巴”っぽいものが付いております。

 W氏提供の奥河町の写真(30年前)には、今とは逆回りの巴になっていて、文献をあれこれ調べましても、 結局は気分や区別、業者の都合というふうに、けっこう適当に使っていたのではないでしょうか? 特に奥河町は、そういうところにアバウトさがあるため、なおさらどちらでもよかったのかもしれません。

 

 ついでに書いておくと、この巴紋をつけていない町も!

 

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 例えば戎町。

 戎町は日章旗と“三つ蔓柏”で打子にも同じ模様が。この三つ蔓柏は、戎濱にも付いております。 お互い漁師町だから漁業のカミ様のえべっさんにあやかっているのか、神社に関わりが深い町だったからなのか、おそらくそういう理解が有力だと思います。

 ついでに言うと、戎町の額に「蛭子町」と書いているので、拝んでいるえべっさんは、大黒さんの子供の事代主神(ことしろぬしかみ)ではなく、 イザナギ・イザナミの子供である蛭子命(ひるこのみこと)だと思います。

 

 わからないのは、戎濱のもう片方の旗にある“丸に違い鷹の羽”の紋。
 

 どこかで見たことがあるなと思っていたのですが、 これは忠臣蔵の浅野家の紋ですよね?!元は阿蘇神社の神紋だったみたいですが、カッコイイからと旗本などに広まっていった経緯をみると、戎濱にそういう家があったのか、漁師町だから武士の勇ましさに憧れて掲げていたのか?

 それとも、 “丸に違い鷹の羽”を掲げる八幡神社の方向を向いているのか?!

 

 ぜんぜんわからん(=o=;)!

 

 そういえば、先日の記事で、初代の戎濱のちょうさの彫刻に、金太郎だったか桃太郎が刻まれていたと書きましたが、定かではなくて、実物を見たことはありません。

 当時のことを知っている地元の人も細かなところまでは覚えてない。もしかすると、忠臣蔵っぽい武芸者でも彫っていたのか?とか思ってみたりみなかったり。

 

 桜町と本町は桜の紋が入っていますが、桜町は新興住宅地ということもあり、単なるマークとして深い意味はないとのこと。

 

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 本町に関しては、“山桜”の紋が入っているわけですが、詳細は不明。案外、当時の名家とか作者の苗字に「さ」という字が入っていただけかもしれません。

 

 東町は、わかりやすくて“(旧)日和佐町章”に「東」を入れただけとのこと。

 

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 これは、うすうす感づいておりました^^;

 1935年7月23日に日和佐町ができたみたいなので、それ以前はどんな旗だったのでしょうかね〜?

 

 と、だらだらと語ってしまったわけですが、以上のことで何かご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせ下さい〜m(__)m

2014/01/06 ちょうさのこと   admin

【情報求む!】戎濱(恵比須浜)のちょうさ

 忙しい 気がするだけの 師走かな

 周りはせわしなく振舞っているのに、そうでもないかなぁ?と密かに疑問に思って、忙しいフリをしている皆さま、こんにちわ。
 本日は、情報提供者を探しての投稿になります。

 何を知りたいのかといいますと、日和佐・戎濱(恵比須浜)のちょうさが新調のさい、マイナーチェンジしたのか?はたまたフルモデルチェンジしたのか?ということ。

 独自の聞き取りでは、旧型を引き継いでほぼ同じであることは間違いないようなのですが、ふとん下の雲板部分の彫刻の整合性がとれなくてう〜む?といった感じです。

 モデルというのは、ちょうさの“”のことでして、日和佐のそれは、堺型大阪型が混ざり合ったような雌太鼓(仕上がり)になっているのは、みなさま周知のことと思います。

 見分け方としましては、装飾が中心か彫刻が中心か?ということと、ふとんの角度ふとん下の雲板彫刻の題材四柱の長さなどがあって、各町、大阪型に近いように思います。

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 戎町と西新町に関しては、雲板の部分が屋根っぽく、堺型の大阪仕様な雰囲気ですが、下にもぐってみたら四柱が地面まで通っていたので堺型といえるでしょう。

 


(掲載:祭道楽のだんじり見聞録!)

 

 皆さまの住む町のちょうさは、何型でしょうか?

 余談はさておき、戎濱なのですが、この町のちょうさは堺型でも大阪型でもなく“淡路型”でして、淡路型の特徴としましては、ふとんの下に薄い板を数枚重ねたようなタガヤがあります。

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 初代の戎濱は、もも太郎だったか金太郎が見事に掘られたちょうさだったらしく、戎町や東町と同じく漁師町としての対抗意識が強かったのではないでしょうか?
 とすると、自ずとそのようなふとん台(堺型)になっていたはずで、聞き取りのように単なるリメイクでは済んでいないと思うわけです。

 つまり、本題として、戎濱が新調のさい型をいじったのかどうかが私――、

「気になります!」←千反田えるっぽく

 ということで情報をお待ち申し上げます。

2013/12/25 ちょうさのこと   admin