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ちょうさのこと

彫刻を見てみよう(西新町)

 日和佐八幡神社・秋祭りの太鼓屋台の彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第三弾。
 
 今回は、「西新町」であります。

 

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 西新町は、現在の桜町の屋台から“暴れ対策”として重く作り替えられました。素材は黒檀で、よく戎町と一位二位を争う重さであるといわれますが、おそらく骨格や材質上、西新町の方が重いのではないかと思われます。

 

 さすが二代目というのか、時代の雰囲気とでもいいましょうか、太平楽な時代を引きずった可愛らしいものではなく、かなり厳つくて洗練されたデザインであります。

 

 それでは詳しく見て行きましょう。

 

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まず正面。堂々とした竜であります。

 

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正面右側・東は、菊と金鶏。

 

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正面左側・西は、鷹と松。

 

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そして背面は、唐獅子二匹。


 ざっと眺めても見事な作りであります。


 木鼻こそ獏から変更されましたが、初代同様、尾垂木が突き出ていて、堺型の原型はきっちりと受け継いでおります。
 西新町最大の特徴は、丸桁(がぎょう)にも狛犬がくっついていて、その数、木鼻と合わせると16匹も睨みをきかせてガード万全!であります。

 

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 この丸桁には、烏帽子ひらたれを引っ掛けるという便利な役割もあります。芸の細かいことに、長押の部分には、日和佐らしく亀。

 

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 改めて、彫刻を眺めてみましょう。

 

 正面右側・東は長寿でも願っているのか金鶏と丸桁にはカニ


 正面左側・西は力を誇示するかのように鷹と丸桁にはトンボ

 

 背面は二匹の唐獅子がかぶりついて一塊となっており、たぶん「太極」の状態を表しているものと思われ、まじまじみると背面は唐獅子が10匹もいるという全面唐獅子の奥河町もびっくりの彫物であります(汗

 ちなみに丸桁には蝶

 

 さらに目を凝らすと、組物ひとつひとつにも細かな彫りがあって、恐るべし美意識であります。
 第一印象は最後にやってくるとは言いますが、こうしてみると、やっぱり桜町の初代と西新町の屋台は、形は違っても姉妹だなぁと思うわけです(;´Д`)

 

 彫刻に関係はないのですが余談として――、
 嘘か本当か、西新町のちょうさには天井があって、昔はオスだったのではないか?と言われておりますけれど、真相は不明。


 桜町の記録では、当時から天井もなくメスだったようなので、もしかするとデザイン変更というよりは性転換?!という疑惑もありますが、そのへんは、戎濱を取り上げる際、触れてみたいとおもいますm(__)m

 

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禰宜も大好き?西新町

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2015/01/24 ちょうさのこと   admin

彫刻を見てみよう(桜町)

 年の瀬も迫っておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 前回・東町からはじめました、彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第二弾。

 

 今回は、「桜町」であります。

 

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 と、その前にこの太鼓屋台は、もともと「西新町」のものだったので、こういうものを作った、という町の性格とか当時の雰囲気を前提に考えてみたいと思います。

 

 

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 はじめは正面。竜であります。

 

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 正面右側・東は、唐獅子。

 

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正面左側・西は、鳳凰←朱雀かも。

 

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 そして背面は、虎。

 

 

 初代・西新町のものだったということだけあり、かなり時代のついた雰囲気。全体的に彫りが可愛かったりするのは、太平楽な江戸時代の雰囲気を引きずっている証拠で、東町とどこか似ている\(^o^)/
 垂木がちょろっと飛び出した堺型の原型は、現在の西新町につながっていきます。

 

 見どころは、木鼻の獏(バク)
 たいていは狛犬なのですが、中村町の木鼻も獏だったりします。ただ、初代・西新町と中村町の制作された時代などを考えると、魔除けの他に、激動の時代へ入っていく中で平和への願いを込めていたのかもしれません。
 (獏は、鉄を食べるので平和な時代でしか生きていけないそうです)

 

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 作られた当時の町の雰囲気としては、当てずっぽうですが、旧街道沿いの宿場町的場所で住宅地でもあった、と考えると、彫られた動物たちに商売繁盛とか円満などを込めていそう。

 また、「唐獅子牡丹」と「竹に虎」という組み合わせの「安住の地」という意味や、竜と虎が対になって力の誇示をしていそうで、いかにも西新町のものだった、ような出来であります。

 

 そんなこんな屋台が桜町のもとへやってきて、大事に使われて今に至るのだと思います。

 この記事では詳細は書きませんが、西新町から桜町にやってきた当時は、布団の上に「入り母屋」を被っていたそうです。

 後から足したのか、布団台の上に黒く塗られた布団台がもうひとつあるのも特徴的だと思います。しかも、その布団台には、格子状の穴が空いていて空気抵抗ばっちりといったところでしょうか(汗

 

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 こうして見ると、実にオリジナリティーあふれる太鼓屋台であることがわかります。
 ここでいうオリジンとは戦後個人主義のいう独創性ということではなく、西から桜へという、自分のオリジン(源泉)が自分であるはずがないというわきまえをもって、手を入れ、元のベースに習っていく、そういった桜町の継承の仕方に安心感があるものであります。

 

 

いま、いいこと言ったヽ(^o^)丿

 

 

 ただ、調子にのってよけいなことを書くと、桜町の「隠し額」が隠し額として機能していないこと。新しい町なのでわかっていないのか、あえてそうしているのかは定かではないのですが、本来、これは布団締めと布団台の隙間を隠すパーツですから、布団締めの上にバッジのように付いているだけなのも面白いポイントであると思います。

 

 この屋台の後に、西新町は「どうしたんだ?!」というくらい細かな彫刻を黒檀に彫って、巨大な仏壇のような屋台を作るわけですが・・・、
 続きは次回でm(__)m

 

 それでは、良いお年を〜( >д<)、;'.・ ィクシッ

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2014/12/28 ちょうさのこと   admin

彫刻を見てみよう(東町)

 秋祭りが終わって、みなさま燃え尽き、熱気はトーンダウンしたころかと思いますが、このブログは飽きもせずにやっております(汗

 

 今回は、彫刻について。
 いつだったか、奥河町の全面・唐獅子牡丹について書いたら、ちょっとだけ反響がありまして、もう全町穴が開くほど見てやろうという趣旨であります。

 

 そんなこんなで東町。
 うちの彫刻が一番ショボイ――、などと関係者の口から自虐的にしばしばきこえてくるのですが、確かに正面は他の町よりもあっさりしている感じです。

 

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 一方、後ろはそうでもなくて、印象としては、全面のみあっさり彫刻であります。

 

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 おそらくこれは、しめ縄を〆たときのバランスを(たぶん)計算した彫りになっていて、手抜きというよりは、そういうものだと思った方がよさそうな^^;

 

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 ちなみに、横面には、漁師町らしく暴れ狂う大海原の波。

 

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 こうしてみると、やっぱり、全面だけしめ縄を避けるようにして彫られているのがわかります。


 正面と後面は、たぶん。後面にはがあるので、後ろは鷹だと思います。
 鷹と鷲は、武士たちに好まれた力の象徴ですから、いまよりドギツく暴れん坊だった昔の漁師町的性格から察するところ、そういうことだと思われ・・・。

 

 横面の鳥は、後から付け足されたのかデフォルメされて定かではありませんが、これがトンビだったら、鷹の仲間が勢揃いです♪

 

 ちなみに、このブログを書いている人が好きな東町の角度は、横から見上げること。

 なにせ、ちょうさの勇壮さや力強さ、妖しさというのは、子供の目線であると思っていて、真正面とか神事の最中に鳥居の内側でカメラを構えたりするのはものすごーく違和感があるわけです。

 

 横から見ると、以前の隠し額でふれたように、太陽(アマテラス)と月(ツクヨミ)があって、その下に波打つ大海原(スサノオ)があると、三姉弟が揃った感じに。
 まさに、みはしらのうずのみこ=三貴子みたいですね。

 

 ここから、房が勢いよく揺れているのを見ると、実に縁起がいい感じですが、ほとんどカメコはいませんから、ベストポジションいただきであります(^_^)v

 

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2014/11/24 ちょうさのこと   admin

わりと当たり前なこと

 先日、娘さんが日和佐の秋祭りの応援隊?に参加予定だという某方から祭りに関して「注意することはないか?」と訊かれた。

 このサイトの作者は、日和佐の秋祭りに直接かかわっていないし、まして日和佐に住んでもいない。

 だから、そんなこと訊かれても・・・などと思いつつ、女の子は「ちょうさは担がない、触れてもいけない」と当たり障りのない話をしました。

 すると、小さな女の子は触ったり乗ったりしているのはなぜか?という話になったので、幼児は男も女もないし、そもそも氏子でもないからええじゃないか\(-o-)

 と、ふんふんなるほどと、話は終わった。

 そういえば、世の中にはお神輿や太鼓屋台を女が担いではいけないことがどうしても理解できない人たちがいて、それをことさら差別だの平等だのとジェンダーフリーにて騒いだりする。

 この漫画の作者は、決して男尊女卑の発想はないし、日本は長い歴史の感覚からして母系国家であるとも思っているくらいであります。
 染色体的にいっても、男は女の出来損ないで、股の付け根から飛び出したものを見ても明らか(-_-;)

 けれども、男と女は同じ人間である以前に、別の生き物で生き方に役割があるから、その役割をフラットにすることが善であるとは思えないのであります。
 女が神輿に近づくことを「平等」と呼ぶ人たちは、おそらく「画一」主義者だったりするわけで、そういう人たちはえてして、比べられないものを平準化に努め、比べるべきものを価値の相対化でお茶を濁すような、バランス感覚がちょっと乏しかったりする。

 

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 昔から女人禁制とするものには、女が触れると汚れるとかカミ様が嫉妬するとか言われていますけれど、やはり体力的なものから母体保護の観点が主たるものだと思います。

 これらを安易に伝統などとは呼んだりしませんが、伝統とは立ち止まって振り返り、あれは何だったか?と過去に問うてみることだと思う次第で、それを過去に問うならば、やっぱり神道の感覚からして、本来に逆らうと良くないことが起きるという歴史の叡智をそこはなとなく体現しているだけでOK牧場なのであります。

 いうなれば、こういうバランスの何たるかを示唆してくれているのが伝統だったりするのかな(ΦωΦ)
 権利というのはルールによって、なすことを認められている自由の可能性でありますけれど、そもそも伝統にはルールなどないわけですから昔からやっているあれこれに平等意識を持ち込むほうが不思議な感じなのであります。

 ムズカシイことを言えば、布団太鼓とは、五穀豊穣を祝うもので、藁を積み上げ、田んぼを表現している屋台であります。そして、田んぼというフィールドにはパワー(力)が必要で、それは元来男の役割で、それは「男」という漢字をみたら一目瞭然。
 一方、穀物をカミ様に捧げるというのは大昔から女の役割でして、アマテラスの食事係のトヨウケノオオカミやお稲荷さんのウカノミタマノカミ、徳島のオオゲツヒメだって女のカミ様なのであります。(※全員、穀物神)

 日和佐にかぎらず、ちょうさ(布団太鼓)にメスが多いのは、五穀豊穣を祝い感謝する女を男が担ぐという意味合いからして、疑問のはさみどころのない形なのであります。
 まあ、心情的に、メスの太鼓からしてみれば、女に担がれるよりも男に担がれたほうが気分がいいと思います。

 長々と書いてしまいましたが、こんなことは日本に住んでいる者の“コモンセンス”として、どうにかこうにかご理解ください(TдT)

 では、おわり。

 

 

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そのうち配布予定のポストカード。

 

2014/08/25 ちょうさのこと   admin

昔の写真いろいろ

 かしらかしらご存知かしら。

 昔の奥河町の天幕は、白かったんですわよ( >д<)、;'.・ ィクシッ

 

 他の町も、旗が若干違いますよね。

 中村町のTさんいわく、旗は大昔から掲げていたのではなく戦時中の国威発揚の名残かもしれないとのことでした。

 なるほど、でも70年前の戎濱には既に掲げられていましたから、日清日露戦争のころは、どうだったんでしょうかね?

 

 伊座利みたいに、写真はなくても絵で残っていたりしたらいいんですけどね(^^ゞ

 

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 ところで、昔の写真をたくさんご提供いただいたので、こっそりアルバムを作ってみました。

 色キチの戎濱とか、たいへん貴重な思い出であります。

 

2014/02/26 ちょうさのこと   admin

ちょうさに関する卒業論文を読んでみた(・∀・)

 徳島大学総合学科の学生さんが、2012年の卒業論文に日和佐の秋祭りを取り上げていたので読んでみた。

 一見、当たり前のことのように思えましたが、こうやって知識体系化されたものはなかったので、大変興味深いものでありましたm(__)m

 

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 この記述と写真は決定的に違うけど――、まあいいか。ちゃんちゃん♪

 

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 と、終わってしまうと後学的にどうかと思うので、心を鬼にして、つついてみたいと思います。

 

 とはいえ、これを書いている人と概ね理解は同じなのですが、水との関わりについていい線までいっているので、沖縄のニライカナイ信仰とかを掘り下げて日本人の感覚を語ってほしかったのと、ワープロのせいかもしれませんが、カミ様を「神」と書いている時点で、一神教でいうGOTっぽい捉え方なのが腑に落ちなかったり。

 

 このブログでは、一応、神のことを「カミ」と表記しているのは、そういった事情からであります。

 そんなことはさておき、今後いかに継続していくべきか?という問いに関しても、少し違う意見をもっております。

 

 論文では、祭りや共同体の衰退を総じて人口減少という切り口でしか語っておらず、推移も鵜呑みでフィールドワークが活かしきれてないのが残念。地元の方も取りこぼしてきたであろうと虫食い状の資料もそのまま。

 あまりいうと関係者に怒られそうなのですが、日和佐の人口は役場発表のものの半分くらいだと思ったほうがいいでしょう。

 

 これは、消防団が日々、足で調べた日和佐の実態でありますし、いつまでもジリ貧政策をとり続けて居心地のいい人たちがいることや、おかしげな施策に対して物申す町民オンブズマン的な人たちのなさが、町の衰退を加速させる核になっていると思うわけであります。

 居住者を獲得するにしても、家主が物置代わりに貸さないし、貸しても補助金まみれの誘致に終わったりして、結局、こういうことを悪者になって言ってくれる人も不足気味。

 

 問題発言をしますと、祭りというものは、半分は氏子のためのものであり、産土神社への奉納っぽい性格でもあろうから、外部から人を呼んでくる必要はないかと(-_-)

 これを「閉鎖的」と呼ぶならば、どこか認識が違っていて、例えば、見ず知らずの人の、親戚の人の、実家で、飛び入りの誕生パーティーに参加するほどの違和感が(~o~)

 まあ、あくまで原則論ですが・・・。

 

 保存会の方々のインタビューでは、「変わらずにいるためには、変わらなければいけない」と、イタリアだったか「山猫」という映画のセリフみたいなやりとりがあります。

 それは、一面の真理でしょうけど、論文のように、人手不足の解消をPR不足と直結させ、閉鎖性の排除や説明責任、交通の便にもってゆくのは、何かが違うなと思ったわけで、それよか、町を離れた地元出身者に効くような泥臭い取り組みの方が、共同体というものは、生きてくるように思うわけです。

 

 読まれている方は、ずいぶん堅物な奴だと思われるかもしれませんけど、「型」のみが残った伝統など、伝統を壊す作用しか生みませんし、運行を至上主義に据えて外国人や女の子に担がせることを良しとしてしまうくらいであれば、断腸の思いで、幕を下ろしてほしいと傾いてゆくかもしれません。

 

 これは、乱暴な持論なのですが、文化伝統その他もろもろ、継承していくためには、どこかに政治がいるんじゃないだろうかと常々考えている次第であります( ゚Д゚)y─┛~~

 

 おわり。←けっこう真剣に考えているので怒らないでね☆彡

2014/02/25 ちょうさのこと   admin

太鼓台は宇宙山なのか?!

 太鼓台は宇宙山。

 などと壮大なことを神戸芸術工科大学(アジアン・デザイン研究所)の論文にかかれているという紹介をうけて、ちょっくら読んでみましたよ。

 すみませんm(__)m
 感想は、(´ヘ`;)ウーム…といった具合で、調べすぎて恐ろしくこじつけ感が満載な内容にたじたじ。

 いろいろと説はあるんだろうけど、無理やりアジアとか宇宙と結びつけたりして、何か大事なことを忘れてはいませんかね。
 太鼓台がカミの依代であるとか雨乞いの道具であったという理解は同じなのですが、そこには一神教の神とか仏という存在が中心にあって、まったく日本的な神事の道具として捉えられていないんですよね〜。
 ここは八百万の国であるぞよ!

 だからか、太鼓台を古代インドの世界観の中でそびえる山・須弥山(しゅみせん)といってみたり、山鉾を宇宙樹、臨時の依代である神籬(ひもろぎ)を横文字のアジアンテイストにしてみたりで、おのず、「生命樹」とか「宇宙樹」という結論に。

 いやいや、太鼓台は、稲作的な意味合いで田んぼを連想する方が、日本的でありましょう。
 だからニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎で四つ太鼓が始まったのではないですかね。

 しかし、論文には、神社とか神道の成り立ちがすっぽり抜けていたりして、あえて言うならば、形而上学に与しすぎなのが、そこはかとない違和感の正体であるのかもしれません。「道徳→宗教→形而上学」という一歩手前で踏みとどまる健全な精神が置き去りにされていて、やれアジア々々と繋いでいく手法に権威主義がぷんぷんであります。

 なにせ、太鼓屋台文化圏としては、一番中途半端であろう瀬戸内のそれをベースに、インドやイランに逆回転したところで、そりゃあ、文明の終着点である日本とは通ずるものはあるでしょう。
 それをあたかも新発見のように無理やりこじつけて「宇宙だ!」という結論になると、日本的な感覚や叡智でもって論じられているのかと心配になったりならなかったり(-_-)
 おまけに、全ての太鼓台は仲間だと言いつつ、確信はないが須弥山だという曖昧さの中には、稲作の藁を積み上げるというイメージがどこにもないじゃないですか( ̄□ ̄;)!!

 これを書いている人の結論としましては、讃岐系ちょうさの言い分とたいして変わらない説だと思った次第で。←関係者の方、怒らないでね☆彡

 おわり。

2014/02/24 ちょうさのこと   admin

寺込のだんじり唄

 ずっと調べておりました“寺込のだんじり唄”。
 寺込の人に訊いても「知らん」「知らん!」とけっこうお手上げ状態だったのですが、役場の事業で作られたというビデオに記録されておりました(^O^)

 

 意外とあっさりな感じであります。案外、取りこぼした歴史なども情報提供を呼びかければ、ぽろっと出てくるのかもしれません。

 提供いただいたTさま、どうもありがとうございますm(__)m

 

 唄っていたのは、伊勢音頭たたら節などらしく、このビデオでは、「たたら音頭七福神」の唄。実に名調子であります。
 この類は、徳島県南地域でよく唄われていたらしいのですが――、詳しいことは、また後日。

 

2014/02/23 ちょうさのこと   admin

トンボに見るルーツ

 お久しぶりです。こんにちは。

 この文はメモ書き程度のものなので、あまり真に受けないでお読み下さい。

 いま、中村町の紋「二つ巴」の意味を調べていて、太鼓の位置関係ではなかろうかとか、いろいろと勝手な想像を巡らして遊んでいるわけでありますが――、

 

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 やっぱり真相はわかりません(´・ω・`)ガッカリ…

 深く考えると、大変そうなので、戎濱(丸に違い鷹の羽)のように忠臣蔵にあやかって“二つ巴”にしたのではないか?と赤穂大石神社の紋を眺めてみたりみなかったり。

 山鹿流の太鼓が日和佐太鼓にところどころ似ているように聴こえたりするのは、(フィクションらしいですが)陣太鼓をイメージしているのではないかとか思ったわけです。

 三つ巴が戦いの紋だとするならば、陣太鼓は二つ巴という関係は意外としぜんなわけでして、奥河町のちょうさに「三つ巴」が付いているのに打子には「二つ巴」であるというのが、そういうルーツを垣間見ているよう。

 もう一つ、難しく考えてみると、中村町は額に町名ではなく「八幡宮」と掲げてしまうほど、たぶん八幡神が大好きな町であると思うので、その延長線上をカーブしただけかもしれません。

 八幡神というのは、神仏習合のいろんなカミ様の集合体でして、日和佐八幡神社も、

 

  • 主神…誉田別命(応神天皇)
  • 母神…息長足姫命(神功皇后)
  • 妻神…玉依姫命(神武天皇の御母后)

 

 という感じに祀られております。

 神話をつつき出すときりがないのですが、妊娠中でも戦う神功皇后とその息子の応神天皇。
 諸説はいろいろありますが、ワンピースの登場人物であるルフィの兄・エースみたいな生まれ方をしていて、そのさい、腕の肉が弓具の鞆のように盛り上がっていたそうです。

 巴の模様は、鞆からもきているそうなので、武神として八幡神であるわけがわかります。

 他、妻神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の御母后)も祀られておりますが、玉依姫命は海の神の娘でして、神武東征の際に先導役となった海の神=塩椎神(しおつちのかみ)だとされております。

 この塩椎神(しおつちのかみ)武角身(たけつのみ)とたぶん同一人物でありまして、鴨族の祖を指していると思います。そんでもって、鴨族=葛城氏のことでありまして、その家紋が「二つ巴」なのでありました。

 だから、中村町の紋のルーツは、玉依姫から鴨族までさかのぼり「二つ巴」を掲げているのではないか?!
 という勝手な説の出来上がりであります。

 過去のブログ記事に、
 

讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。


 と偉そうなことを書いております。

 もうちょうさの話でもなんでもないのですが、この鴨族のルーツは百済からやってきて、愛媛の大三島に上陸、後に関西の方に分流していったとされております。
 だから、四国の布団太鼓は、愛媛から香川にかけてなんとなく九州っぽい雰囲気。

 対して、徳島の布団太鼓は完全に大阪のものであるにもかかわらず、中村町のちょうさのトンボだけが、讃岐系と同じ結びなのがおそろしく謎であります。

 

 

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(讃岐系っぽい結び)

 

 もしかすると、中村町のちょうさは、鴨っぽい影響が入った町、もしくは住人によって設計された屋台なのかもしれません。

 いずれにせよ、トンボの形にルーツがありそうということで、今日はここまでm(__)m

2014/02/06 ちょうさのこと   admin

広義のちょうさで説明可能か?

 いつも思っていることなのですが、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は、あまりにも全国の布団太鼓とことごとく違う感じがしております。

 かき棒の組み方にはじまり、拍子の取り方、台座の低さ、全町違うカラフルな布団などなど、大阪とも堺とも違うその構造的な特異性が、正体にモザイクをかけている感じに。

 おかげさまで、調べれば調べるほど解から遠ざかっていくという八方ふさがりな状態であります(~o~)

 それは、もちろん日和佐が漁師町で、海に入ることを前提に組まれているからに他ならないのでしょうが、そもそも、なぜに農村系の祭りを漁師町が採用しのでしょう?

 憶測で言えば、日和佐にちょうさを持ってきた谷屋甚助の感性によるものが大部分を占めると思います。
 なぜなら、昔の人はあれこれ論理的には考えたりせずに、歴史によって培われた常識によって物事を判断していたからであります。
 だから、案外、大阪で奇妙な形の屋台を見て、
「布団太鼓、超Σd(゚∀゚d)イカス!」
 といった物珍しさだったかもしれません。

 さておき、

 そのちょうさ(布団太鼓)は、本当に合理的な形をしているなぁ〜と思います。
 トンボは雨雲房は雨を表し、おまけに水のカミ様の使いである竜の布団締めや彫刻までもあしらう。
 大阪の方へ行くと「べーら べーら べらしょっしょい!」という掛け声もあったりして、これが農村系の祭りであることを証明していると思います。

 「べら」とは「米良」つまり、良い米=豊作を表し、良い米ができたぞ!ワッショイワッショイ♪というニュアンスが鈍って「べーらべーら」となっているのだと思います。

 東大阪のとある中学校の学校通信(プリント)に、昔は米を奉納するのに赤の幕と白の水引をつけていたことから、太鼓台の布団には「赤」布団締めは「白」が採用されていったと書かれていました。
 真実かどうかは知りませんが、現地の年寄りの話が盛り込まれているので、とても本当くさく理解しました。

 だから、全国の布団太鼓(ちょうさ)はが多い!!ということでしょうか。

 また、以上のことから、豊作を祝うことの他にも、布団太鼓(ちょうさ)は、雨乞いのための道具であったのかもしれません。
 そう考えると、水不足でお悩みの讃岐のちょうさなどは、これでもか!というほど大きな竜の刺繍を太鼓にあしらい、布団を締めているのか覆っているのかわからなくなるほど、切迫した危機感が見て取れる感じの仕上がりに(ToT)

 讃岐系ちょうさの解説文を見るに、原型は京都の祇園祭で、瀬戸内経由で伝わったとされております。ですが、なぜにそういうことをやっているか?という思想や信ぴょう性が薄くて、単に綺羅びやかさを求め、東に行くほど小物という扱いが多いように思います。

 ここでもう少し深堀りしますと、これも仮説ではありますが――、
 布団太鼓の起源は、宮崎県や愛媛県に見られる「四ツ太鼓」かもしれないとのこと。

 四つ太鼓とは、簡単に言うと、布団のない太鼓屋台みたいなものでしょうか。

 分かる気はします。
「稲作の方法を教え、国を治めよ!」と命を受け、ニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎県から豊作を祝う祭りが始まったのは理にかなっているし、廻船の発達とともに四国(愛媛)にもソレが入ってきたとも想像できます。

 なにせ、四つ太鼓をかき上げるさい「ヨーンヤッサイ!」というのは、愛媛や香川の「ヤッサイヤッサイ!」という掛け声と似ているからです。
 香川の方は気を悪くするかもしれないので、小さい声でいいますと、四つ太鼓の担ぎ棒を長サイ棒(ちょうさいぼう)と呼ぶそうで、“ちょうさ”という呼び名は、張さんを讃えるというより、ここからきているのではないかと思います。

 広島の布団太鼓のチョーサイもおそらく、この流れの理屈ではないでしょうか。

 一方、日和佐はどうか?と言いますと、まぎれもなく堺からダイレクトに伝わっているので、讃岐系のちょうさとは別物であると思います。

 讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。

 確かに、大阪のものとは大きさや雰囲気があきらかに違うし、災いを払うために始めた祇園祭とは、まったく背景が違っていて、いずれにせよ、日和佐のちょうさは、瀬戸内・四国のソレとは別物であると思えます。
 そして、これらの祭りは、1800年頃に広まったということ。

 大阪・堺では、江戸中期(1651〜1745)から布団太鼓があったという資料もあり、やっていることは同じでも発祥は、また別物だったのではないでしょうか?

 なにせ、四つ太鼓説を採用してしまうと、日和佐・戎町のちょうさは、それよりもはやく存在しているわけでして、年代的にどうもおかしい。なので、やっぱり大阪発祥のものを取り入れたと考えた方が自然で、歴史においても、まったく関係のないところで同じようなことが起きるという「百一匹目のサル」現象にて理解した方がスッキリしそうな感じです。
 つまり、都会の子も田舎の子も、誰に教わったわけでもないのに、同じようなことをして遊んだり感じたりして成長するように、文化とは、何の接点がなくとも繋がるときは繋がってしまうものではないでしょうか。

 以上のことを勘案し、冒頭に戻りますと、日和佐は漁師町なのに農村系の祭りを取り入れて、独自の進化を遂げ、「ちょうさ」という型をいじり倒している稀な町であると思います。

 あれだけ大阪に憧れているのに、ちょうさの大きさは中型で、当時は裕福だったにも拘らず彫刻は控えめ、房も小さく、雌の太鼓なのに雄のようなシンプルさは、あきらかに機動性重視の日和佐特有の事情といえるでしょう。
 しかも、漁師町のせっかちさからか、ほとんどの布団太鼓が四拍子で足並みを揃えて担ぐのに対して、日和佐は二拍子で好き勝手……。

 と、あれこれと書いてしまいましたが、つまり、日和佐のちょうさは狭義のソレには当てはまりませんが、広義という制約のなさから、目的外使用の連発にて、ちょうさ(布団太鼓)界でも稀な姿形になっていったような気がします。


 まとめ(真に受けないでね☆彡)

 日和佐の布団太鼓は、目的外使用による水陸両用ホバークラフト的な屋台で、大阪発祥、独自カスタム。
 呼び名も、大阪方言の掛け声から。

 結論すると、他所と比べても何も得られないので、もう「日和佐型」と呼ばせてくださいm(__)m

2014/01/21 ちょうさのこと   admin