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ちょうさのこと

ストイックな時代

 しばらく更新をサボっていたら、はや年も迫ってきました。
 
 先日、奥河町のW氏のおじいさんが撮影したという懐かしい写真を提供いただきました。どうもありがとうございます!
 今回は、その中から珍しいものをペタリ。白黒なので、けっこう古い写真ですな☆彡
 
 一枚目は、これ。

 

 

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 どこや?と思われるかもしれませんが、金神輿が“ヨコハマ”にて浸かっている写真。
 ヨコハマというのは、以前にも書きましたが、大浜海岸の前に太鼓を置いていた現在の水産試験場や魚市場があったところ。
 写真の奥には、厄除橋が見えます。薬王寺には、まだ瑜祇塔の姿がありません。
 
 当時は、ちょうさを水に浸けるという発想がありませんでしたが、神輿だけはどっぷりと禊(みそぎ)していたようです。←ここ重要
 
 メディアなどは海の穢(けがれ)を祓っているという説明をよくしていますけれど、神道的には、海に穢れを落としてもらっているという感覚。なにせ、カミ様が乗っていますから。
 これをちょうさが真似て海に入りだしたというのが、日和佐の祭りの特徴といえますφ(..)
 
 二枚目。

 

 

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 こちらは西新町の写真で、よく見ると打子が二人しか乗っていません。
 
 どういうこっちゃ?と思いましたが、この当時は、太鼓に女の子を乗せるなどもってのほかな時代で、本町同様、西新町も子供の少ない町でした。
 昭和37年は本町が据太鼓だったという記録もあるため、おそらく、同時期の光景なのかもしれません。

 一見すると、寂しい感じもしますけれど、こういう、伝統にストイックで、現状をどうにかしてしまう昔の道徳が写っている絵は、けっこう好きだったりします。
 
 人手不足といえば、今より人口が多かったさらに昔から問題になっており、祭りを続けていくというのは、本当に大変なことでありますな。


 そんなこんなで、本日は、以上!

 


 他にも、懐かしくて面白い写真をお持ちの方がおりましたら、ぜひみんなで共有できるよう、神社や役場、気が向きましたら当サイトへ送っていただけると幸いです。

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2016/12/19 ちょうさのこと   admin

差し上げの掛け声は何がいいか?

 先日、日和佐八幡神社のFacebookに、祭りの掛け声について書かれていました。


 それには、差し上げを意味する「サーセー サーセー」が、近年は「ヤーレー サーセー」になっているのはけしからんとのことで、町外の人に間違って伝わっているのではないかと危惧されていました。

 

 

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資料:戎町の掛け声
 

 


 確かに説明もなくやっていますから、なんだかよくわからずに見物している人が大半であります。
 祭りに参加した大学生の論文にも、けっこう的はずれなことが書かれていますし、そもそも、“敬意を表する差し上げ”がだんじり文化圏の観光客には“威嚇”と見られている向きもあります。
 
 順番待ちちょうさの休憩と芸能(わざおぎ)の時間も、知らない人には遊んでいると見られ、そこへ差し上げに行くちょうさは、おちょくりに行っている、などという解釈を年寄りのカメコの立ち話から聞いたこともあります。
 
 つまり、なーんにもわからずに見られているのが全町を追っかけている身としての感想なわけですΣ(・∀・;)
 


 さておき、けしからん「ヤーレー サーセー」について。
 これは、おそらく、叩き始めの「ヤーレン ヤーレン イッサンジャイ」の「ヤ」という音に引きずられる形で、「ヤーレー サーセー」になったものだと想像しております。
 ヘブライ語で解釈すると、「喜び歌い勇んで行く」と、ちゃんと意味が通じていますね。
 
 昔話を書きますと、これを書いている人が子供の頃、確かに皆、「サーセー サーセー」と言っていました。
 ところが、東町のみ「ヤーレー サーセー」だったという記憶もあって、当時は、各々町の特徴なのだと気にもとめておりません。
 今になって考えてみると、一番元気がありイケイケドンドンなムードメーカー的な漁師町として、「もっとやれ!やれ!」という勢いが「サ」を「ヤ」に変えてしまったのかも^^;
 
 話を戻し、なぜヘブライ語なのかといえば、イザヤの預言に従い「東の海の島」を目指したイスラエル人がアジアから日本列島目指し口ずさんだものがソーラン節として残り、開拓地から民謡として、音頭として、広まり掛け声として組み込まれていったのではないかと。
 
 叩き終わりの「エンエンエン」や「エンエンヤー」というのも、日本語としては通じません。
 ただ、終着するというような意味なので、日和佐では太鼓を置きますという雰囲気なのでありましょう。
 
 こんなことを書くと、日本はキリスト教の国だったとか適当なことを言う人が必ず出てくるわけですが、そもそも、日本は文明の終着地であり、南アフリカから出発した一番ガッツのある人々が作り上げた奇跡の国なのであって、世界各国の発想が入っていても全く不思議ではありません。
 もとい、他所の掛け声と比較し、調べるにあたっても、結果、日本語として通じず納得の行くものがなく、田中美知太郎のいう「言葉は過去からやってくる」という前提と日本の成り立ちに従った方がしっくりくるような気もします。
 
 また、「チョーサ」とて、元は大阪系の掛け声だと云われていますが、「チョウサ」=「喜んで行進する」という意味合いなので、これもそんな感じであると思います。かといって、日本の掛け声を今のイスラエル人に聞かせたところで、なんのこっちゃなことでしょう(・・?
 
 伝統は受け継いだものを意識したところに生まれるといいます。他方、言葉とは時代とともに変形していくもので、無意識のうちに受け継いでいくものでもあります。そして、いまここにしかない伝統から必要なことを思い起こすという作業の繰り返しが、継承と呼べるモノでしょう。
 
 つまるところ、差し上げを「サーセー サーセー」と叫ぶのは作法として正しいことなのかもしれませんが、言葉を生き物として見ると、別に「ヤーレー サーセー」でも、矯正するしないは別として、どちらでもええじゃないかというのが、このブログの見解であります☆彡
 なにせ、掛け声や叩き方も、昔と比べて相当変わっているらしいですし・・・。
 
 次世代に残していくのであれば、各町が示し合わせて統一の掛け声を文字に起こしつつ、各々好きに色を出していく、という継承はどうですかねφ(..)

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2016/11/05 ちょうさのこと   admin

【10回目】お着替えいろいろ?

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ダウンロードはこちら[ PDF:691KB]

 

 

 今回は、ちょうさ組立のお話し。

 普通たいてい、ちょうさの組立は、こんな風に八幡神社の太鼓納屋で行うのが一般的です。

 

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 こちらは、桜町・・・じゃなかった、奥河町です。布団の枠は白いんです∠( ゚д゚)/

 

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 組み立てたら、各々、自分の町まで運びます。

 

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 本町や中村町などは、布団の部分だけ町民館などで組み立てて、太鼓納屋でドッキングするパターン!

 そして、自分の町まで運んでいきます。

 

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 一方、戎町はというと――、

 町民館横の避難タワー(通称:タスカルタワー)下で組立。

 

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 屋根があるし電源もあるしで便利な場所です。

 

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 かつては、戎町ちょうさの実家ともいえる「谷屋」で組み立てていたそうなのですが、タワーの下の方が開けているし雨露しのげるということで、近年はもっぱらココ。

 昔ながらのやりかたで、谷屋の前で組み立てようという声もきかれます(゚∀゚)

 

 ただ、タワー下での組立が理にかなっているなと思うのは、ちょうさの構造にあるかもしれません。

 というのも、戎町は欄間があるため、屋台の天井が吹き抜けではなく、布団を乗せるために外側から人が乗り込む必要があり、梯子をタワーに架けて乗り込みます。←ここ大事

 天井がない町のちょうさは、内側から乗り込んで積み上げたり、組み立ててから乗せるという方法をとっているところも。いずれにせよ、布団と屋台を繋ぐために、人が乗り込まなければならないのは、ちょうさ共通の手順で、屋台へのダメージを最小限に抑える工夫といってよいでしょう。

 

 他方、天井のある町の西新町や奥河町(※戎濱除く)も戎町と同じでありますが、奥河町は素で布団に梯子を架けてしまうワイルドさ!!Σ(・∀・;)

 しかも、大人が二人くらい乗り込んだりするので、丸桁にヒビがあるのはそのせいだと思うよ・・・(汗)

 

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 とまあ、組み立て方ひとつとっても、各々町の性格とか雰囲気が現れていて面白いものです。

 和気あいあいと時間をかけて組み立てる町・・・、さっと組み立てて後は太鼓を叩きまくっている町・・・、基準などないので良し悪し語るつもりはないのですが、擬人化キャラの性格付に大いに参考にさせていただいておりますので、今後とも、祭りの際は、組立のお邪魔をさせていただきたく、よろしくお願いいたしますm(__)m

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2016/05/16 ちょうさのこと   admin

【9回目】うるふ様がみてる?

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ダウンロードはこちら[ PDF:673KB]

 

 てなわけで、今回は、桜町西新町寺込のお話し。

 元ネタ、わかるかな(;・∀・)?

 

 桜町と西新町が姉妹関係にあるのは、日和佐の方なら周知のことだと思います。しかし、それ以前のことは、あまり知られていないようなので、今回は、そんな三町を取り上げてみたいと思います。

 

 昭和二十一年、西新町は、旧のちょうさの扱いに困っていました。スペアとしてとっておくべきか、いっそ処分するべきか・・・。

 そんなとき、なーんにもない新興地でちょうさも保有していなかった寺前地区が浮かびます。当時の寺前は、寺前込方。ご存知、あの大きなだんじりを、現・桜町と寺込が共同で運行していました。いや、もともと一つの町であったともいえるでしょう。

 

 そこへ、西新町から「ちょうさはいらんかね?」と言われ、「ほしい!やります!」ということで“だんじり派”“ちょうさ派”に分断、おのず町も別れて現在にいたるというわけです。

 

 翌年、「桜町太鼓規約」が制定されるとともに、西新町との繋がりを強くするため縁組なども盛んに行われたのだそう。桜町に住んでいるけれども、実家は西新町だという方もけっこういるのではないでしょうか?

 加えて、ちょうさを運行するために、習えや稼げと商売を始めだしたのも、一面の田んぼから商店街へと繋がるベースになっているようで、ちょうさ一台が日和佐の歴史に大きく関係していて興味深いことだと思います。

 

 余談ではありますが、西新町と同じ白い布団の桜町ですが、これは姉妹関係にあるからというわけではなく、参入時、布団を買うお金がなくて、木枠に白いペンキを塗っていたからだという説もあるようです。

 

 一方で、寺込のだんじりについて。

 このだんじりは、江戸末期〜明治初期大阪堺の二代目・西岡又兵衛(堺彫又)によって作られたもので、現・阿南市(那賀郡)の福井町(村)が大正初期に購入しました。

 堺の港を発ち、橘港で受け取ったという記録も残っております。

 しかし、堺型だんじりとしても大型だったため、福井村の人たちも曳くに曳けず、大正六年、日和佐の寺前にやってきたというわけであります。

 

 唐獅子牡丹のみごとな彫刻、伊勢音頭を歌いながらゆったりと練りゆくその姿は、カミの依代としての格の高さを、さぞ醸していたでありましょう。

 正確な作事は不明ですが、日和佐にやってきて、今年で99歳

 来年は100歳を迎えます!なんと現在の戎町(大正十年)のちょうさよりも年上ではないか(゚∀゚)!!

 

 全国のだんじりのたいはんは、空襲で焼かれておりますので、100年ものは、とーってもすごい奇跡であると思います。願わくば、来年のカレンダーには、しょーもないギャル神輿とか氏子ですらない子供(7歳以下)の写真などつかわずに、寺込のだんじりを入れていただきたいものであります(`・ω・´)ゞ

 

 カメコの皆さん、たのんだよ!!

 

 ちなみに、初代・戎町のちょうさは、志和岐の吉野神社で、だらーんと色キチ太鼓として頑張っておるそうで、この辺のお話しは、また今度。

 

 ひとまず、おわり。

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2016/01/18 ちょうさのこと   admin

彫刻を見てみよう(本町)

 日和佐八幡神社・秋祭りの太鼓屋台の彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第五弾。


 今回は、一風変わった「本町」であります。

 

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 何が変わっているかと言いますと、全国でも例のない冠婚葬祭ゼブラープリズン?な白黒の布団や、“願いのミックス”など、布団太鼓の前提をことごとく無視した作りに奥河町と同じ我が道を行く匂いが漂っております。

 

 本町は、天保九年(1838年)に作られた記録があるそうで、中村町のいっこ下。この町が作られた年代から、激動期独特の厳つさが彫物にも反映されているわけですが、本町は少しだけ愛嬌があるように思います。

 

 それでは詳しく見て行きましょう。

 

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まずは、正面。鷲。背景が波なのが珍しい。

 

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正面右側・東は、金鶏。西新町と同じです。

 

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正面左側・西は、鶴。めでたい感じです。

 

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そして背面・北は、亀と鯉。

 

 これは、本町最大の特徴といってよく、この組み合わせは、かなり珍しいものだと思います。

 

 海亀の町・日和佐だからなのか、江戸後期の庶民の長寿のシンボルとして亀なのか、「鯉の滝登り」で繁栄を願うものなのか、南房総に多く見られる彫物が一挙におがめるのは、おそらく、この本町の北側だけだと思います。

 

 古代史的にいえば、関東の住民のはじまりは、戦いに敗れて逃げていった人たちと、徳島人が千葉県に渡ったのがはじまりとされており、安房(あわ)という地名もそのことを暗に語っていると思います。

 

 南房総によくある彫物と、徳島県南の太鼓屋台の彫物がちょっと似ているというのは、歴史的に面白いことだと思います。

 

 ともあれ、この亀と鯉という組み合わせは、日和佐のちょうさの中でも唯一無二の彫物であり、他にも本町が他所町と違うところは、この二重の縁束(えんずか)部分でありましょう。

 

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 なぜ、このような形なのかというと、宵宮の町廻りで車輪を付けるさい、車輪用の脚として、このような形状になっているものと思われます。

 

 さすが、はじめて車輪を付け始めた前例として、先端を行っていますね!

 

 これが契機で、本町同様、人が少なく、かつ重たい西新町が車輪を付け始め、西がやるならと戎町も真似たら他の町も続いたというエピソードに繋がるわけです。

 

 これらについては、また後日、本町の解体新書と一緒に紹介したいと思います。


 来年、一番太鼓の本町。近くで鑑賞されるさいは、ぜひとも背面の亀と鯉をじっくりとご覧になってはいかがでしょうか(/・ω・)/

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2015/11/14 ちょうさのこと   admin

若連中の階級について

 戦後70年のおり、「ナチ」などという言葉を書くと、左巻きの人たちは、アレルギー反応をおこして発狂していることと思いますが、暑中いかがお過ごしでしょうか(^o^)
 けれども、本来のナチとは、「nation(民族)」の語源たる「ナツィオ=生誕の地」であり、原点に帰ることを指します。

 

 ともなって革命という言葉も、本来あるべき状態がおかしくなったときに起こる現象のことをいいまして、ナチと革命というものは、コミュニティーの死守を意味するものだと思います。
 これを本当は、「保守」と呼ばなければいけないのですが、分割統治されたままの我が国においては、左右どちらに転べども左巻きといった感じで、現政権も“戦後レジームの完成”を成し遂げてしまいましたね(汗

 

 前置きはさておき、当ブログの「勝手に擬人化」も3年目を迎え、多方面から閲覧いただいていることに感謝感激!真姫ちゃんすごいな!さしすせそ!(爆)な感じでありますが――、
 ナチから見える原点とは何か?を日和佐の祭りに当てはめて、少し考えてみたいと思います。

 

 今回は、ちょうさを運行する上での組織の「階級」に注目してみましょう。

 階級などと書くと、またもや左巻きの人が不平等だと騒ぎそうですが、そういう時は、天皇を認めたらみんな平等という一君万民をおぼえましょう!

(女性が参加できないことに銃後という言葉が頭をよぎる変な人もいらっしゃるようなので、はなはだワロタwww)

 

 現在では、太鼓を叩く「打子」、担ぎ手の「若連中」、監督先導約の「宿老」と呼ばれる分類が一般的です。
 ところが、ほんの数十年前には、「若連中」の中にも階級が存在していたそうで、今のように人手不足による役割の自動割り当てというものがなかったことがうかがえます。
 都会の人は、しばしば「役割があることが嬉しい」と言って田舎を喜んだりしますが、本来、役割とは進んで勝ち取るものなので、田舎の競争率の低さは、悪ガキののほほんとした顔つきを見ても明らかでしょう( ゚д゚)

 

 ざっくりと分けると、打ち子を終えた前髪(まえがみ)と呼ばれる成人前の使いっ走りに、成人したぺえぺえの大人である左義長(さぎっちょう)、その上に、現場を取り仕切る若連中(わかれんちゅう)という位があったのだそう。いまでは、これらを総称して若連中ということにしています。

 

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 前髪とは、前髪だけ残した毛の生えそろっていないような元服前の少年のことを言います。
 左義長の語源は定かではありませんが、全国の「左義長祭り」などでは元服が参加資格になっていたそうですが、ぺえぺえの大人もそういうふうに呼んでいたのではないかと推測。
 そして、若連中は、ひと通りを経験し、現場を取り仕切ることのできる大人のことをいいます。

 

 その他にも、その年の一番太鼓の総責任者である「総務」や、けが人や子供の安全を見張る「衛生」のような役割もあったと考えられます。
 本町などは、一番太鼓の年にだけ責任者が着る特別仕様の法被があるようですが、いまははてさて、どうでしょう??

 

 打子に至っても、バチさばきの達者な者しかちょうさに乗らせてもらえず、毎年何人もの子供が演奏から漏れ、練りゆくちょうさを羨望していました。
 いまでは交代要員(補欠)や子供神輿というガス抜きがあるため、不満は爆発しませんが、中には、腹いせに太鼓を壊しにくる子供もいたそうで、そういう子供たちの見張り役に、前髪(まえがみ)と呼ばれる下っ端が太鼓番を仰せつかります。

 

 ところがどっこい、担がせてもらえない前髪(まえがみ)も、腹いせに屋台を壊しにくるので、その上の左義長(さぎっちょう)が睨みをきかせ、その実、思う位置で担げない左義長(さぎっちょう)も不満をもったら、若連中がガツン!とやって教育、というループが存在していました。

 

 そういう、仲間内の好きすぎて憎い、腹いせの心理によって、しばしばちょうさは危機にさらされてきました(´・ω・`)
 これは、想像ですが、戎濱のちょうさが焼失したのも、そういう仲間内の腹いせに起因するものではないかと勘ぐってみたり(爆

 

 このような流れからわかるように、昨今の「大人が怖くない子供」は昔には存在しなくて、そうやって祭りを触媒にした中間共同体は、人や地域を互いに育ててきたのだと思います。
 福岡・祇園山笠の「流」という組織には、もっと細かな役職と階級が手ぬぐいの色で示されるように、その色によってその人物の人柄というものがひと目でわかるというもの。

 

 戦後教育の誤謬は、みんな一緒で平等!が画一としてまかり通り、言葉を含め、暴力は悪という発想が躾を奪い、祭りは楽しいだけのものになりました。
 本来は、中間共同体の中で上下関係や周囲と“うまくやる”という調和を学んで、ある程度の秩序のなかで平凡の素晴らしさを満喫していたことと思います。


 なにせ、秩序とは、平和(ピース)とは、パクス=平定のことでありますから、ふらっとやってきたキャラバン隊や歴史不在の都会者には、解りかねる感覚でしょうし、祭りが氏子だけのものでなくなっていることに原点とはなにか?を感じてみたりみなかったり。。。

 

 ゆえに、祭りのときくらいは、上下関係を明確にしてはどうか?と偉そうに提唱して、原点回帰としたいと思います。

 

 おわり。

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2015/07/25 ちょうさのこと   admin

彫刻を見てみよう(奥河町)

 しばらくサボっておりましたが――、

 日和佐八幡神社・秋祭りの太鼓屋台の彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第四弾。
 
 今回は、我が道を行く「奥河町」であります。

 

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 この町は、嘉永四年(1851年)の衣装箱が残っている(←見たことはない)だけで、おそらく、その頃に作られたのであろう、ということになっております。
 使われ方が雑だったようで、彫刻部分しか当時を残していないそうで、比較的新規参入組なのに傷んでいるな、という感想をもっていました。

 

 と・こ・ろ・が!年寄りの昔話では、奥河町のちょうさは、現在の輪番順が始まる以前には、お練は前の方で、集会でも比較的良い場所に陣取っていたとのこと。可愛らしい彫刻の雰囲気から察するところ、四番手くらいには祭りに参加していたのではないか?と推測したりしなかったり。

 

 写真はちゃんと撮れていないのですが、奥河町は全面・唐獅子牡丹であります。
 日和佐では珍しく「雲板」があるところも他の町とは違ったところであると思います。
 見上げると、本当に雲板に「雲」が彫られておりまして実に味わい深い形状であります。

 

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全面が唐獅子牡丹

 

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雲板には雲

 

 一見すると、実にあっさりした彫刻である、とファンからはささやかれております。

 しかし、以前にも書きましたが、込められたメッセージとしては法話的に言うと、「安心して身を寄せられる安住の地はどこにあるか?」ということ。

 

 唐獅子牡丹の意味するところは、めちゃめちゃ強くて怖いものなしの獅子でも、自分の体毛の中の虫だけには勝てない。しかし、牡丹から滴り落ちる夜露に濡れると虫は死んでしまうので、獅子は牡丹の下で寝るそうな。
 確かに、奥河町の木鼻は、ちゃんと牡丹の下に唐獅子が休んでおりまして、他の町の木鼻(唐獅子&獏)とは意味合いが違っているように思います。

 

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 ここ数年は綺麗になってきておりますが、大変失礼ながら、奥河町は、組立精度がちょっと甘くて、シワが寄ったり歪んでいたりは茶飯事。
 ゆえに、過去の時代、しめ縄をうっかり締め忘れてしまったのが伝わってしまい、現在のような形になっているのではないか?とその構造的な違和感と他の町との比較をもって見ていたわけであります。

 

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奥河町だけ鼓胴注連

 

 しかし、浅はかでしたm(__)m
 聖と俗を仕切るしめ縄を奥河町の木鼻に引っ掛けしまうと、牡丹と獅子を隔ててしまい、そこが安住の地ではなくなってしまうおそれがあります。
 だから、心のよりどころを守るために、あえてしめ縄を木鼻に引っ掛け巻かない方針なのか、前面のみ「鼓胴注連」になっていて、ほとんど社殿扱いであります。

 

 よく見ていただくと、木鼻の牡丹の上がスパッと水平になっていて、後から取ってつけたかのような感じに。丸桁(がぎょう)が妙に傷んでいたりするのは、組立のさい、二人がかりで布団に乗り込むからだと思っておりましたが、雲板部分を後から乗せたような作りなので、強度的に負荷がかかっているのも(´・ω・`)

 

 このように、奥河町のちょうさはデフォルトを良しとせず、たえず手を入れカスタマイズしてきた、アンチ・レディメイドな太鼓屋台といえ、近寄って見上げる、というちょうさを鑑賞する上での本来の視点を思い起こさせてくれるかのようです。

 

 布団太鼓のありきたりな写真は、正面からの勇壮さしか捉えられない傾向にあります。
 けれども、布団太鼓の勇壮さ、力強さ、妖艶さというのは、子供の視点に他ならず、練りゆくちょうさを見送り見上げる、そういった味わいを醸すのは、この赤一色の町特有の美徳であるのではないでしょうか。

 

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布団台の上に布シート!

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2015/06/08 ちょうさのこと   admin

戎町ちょうさ・220年!

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 戎町ちょうさ様、220歳のお誕生日おめでとうございますヽ(*´∀`)ノ♪

 寛政7年(1795年)から奉納しているなんて、超絶ビックリであります。

 

 近頃は、地方創生などというちっとも心に響かない言葉が標語のように飛びかっておりますが、田舎は決して特別なものではないでしょう。

 むしろ日本の問題点が凝縮された景色はどこか寂しげで、さみしいなりにも都市部の人間を癒してしまうかのような、そんな雰囲気を紡いでいるのは、地域の祭りに他ならないと思います。

 そんな祭りを支え始めた戎町は、これまでもこれからも、日和佐の方向性を示すスープラであってほしいと思います!

 

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集合写真よりもちょうさを囲っている方が好き

 

 →戎町については日和佐八幡神社のページでご覧ください。

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2015/04/18 ちょうさのこと   admin

モデルチェンジした戎濱ちょうさ

 突然ですが、こちらは現在の戎濱のちょうさ。

 

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 そんでもって、こちらが約70年ほど前に撮影された初代・戎濱のちょうさになります。

 

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 戎濱が火事によってちょうさを新調したことは、みなさま、周知のことと思います。
 ただ、作りなおしたということは、原型となるモデルを引き継いだのか、はたまたモデルチェンジしたのか?という素朴な疑問がありました。

 

 初代・戎濱が写った写真は何枚も目にしましたが、どれも遠巻きに収められていて何がなんだかわからずじまい(-_-;)

 そんなおり、博物館行きとなっていたTさんの写真をいただくことができ、モデルが判明したというわけです。

 

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 改めて写真をご覧ください。
 現在のものよりも大きく、周囲の大人と比較しても、東町程度の規模であったことがわかります。

 これは、いわゆる「大阪型」といわれる古いモデルのように思われ、フレームは奥河町とそっくりであります。
 そして、雲板の天井は、現在の桜町のように格天井となっており、戎濱は、

 

 「大阪型」から「淡路型」へモデルチェンジしたことになります。

 

 肝心の彫刻部分は写っておりませんが、当時のことを知る方の話では、前面には戎濱ということでえべっさんが彫られていたとのこと。
 他の方は、桃太郎や金太郎が彫られていたとおっしゃっておりますが、鯛と竿も持っていたとのことなので、えべっさんでまず間違いないと思います。

 

 ただこれは、前面の彫刻なので、他の面には、桃太郎や金太郎が彫られていたのかもしれません。
 総じて「可愛らしい感じ」だったそうなので、真に受けて想像しますと、東町や当時の西新町(桜町)の彫刻のように太平楽な時代を引きずった雰囲気だったのかもしれません。
 また、戎濱という集落が江戸後期に出来、早くから日和佐に溶けこむために祭りに関わっていたという話を勘案すると、少なくとも東町〜西新町あたりが奉納を始めた時代には、戎濱のちょうさも存在していた可能性があります。
(中村町が奉納を始めた頃には、今のように輪番ではなく参入順だったそうですが、戎濱は境内に納屋を持っていなかったため、いつも最後だったようです)

 

 これは、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、この写真は、足回りが現在のものよりも高いように見えます。
 昔から海に入らなかった戎濱の性格を考えると、現在とは違って土呂幕があり、大阪の太鼓のように足が長かったのではないかと推測できます(^^ゞ


 それはそうと、こちらは同時期に撮影された戦時中の八幡神社境内の写真であります。

 

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 宮ノ森というだけあって、海の横なのに本当に森みたいであります。
 中村町の太鼓納屋が見当たりませんが、この当時は現在の戎濱辺りにあったのだそう。

 

 日章旗と旭日旗を振る練習であります。
 後知恵の戦後民主主義に洗脳されてしまった方には異様な光景に映るかもしれませんが、別に軍国主義の暗黒時代というわけではなく、案外、子供は快活で食べ物に困ったこともないそうで、歴史に筋を通すという意味でも貴重な写真であります。

 

 ついでに書いておくと、日和佐のちょうさに旗が掲げられるようになったのは戦時中からだそうで、戎濱をのぞく他の町は日章旗と旭日旗を掲げていたそうです。
 ところが、敗戦後GHQに日章旗を掲げることを禁止され、一時の自粛の後、各町オリジナルの旗を掲げるようになっていった経緯があります。

 

 同じ戎の名をもつ戎町とて、三蔓柏を掲げるようになったのは、昭和の中頃なのだそうで、当時を知る人いわく、当時から変わらずに「三蔓柏」と「丸に違い鷹羽」を掲げていたのは戎濱だけ。別の視点で言えば、当時からイケイケドンドン鬼畜米英的に旗を掲げ続けたのは、奥河町で、実に芯の強い町であると言えるでしょう。


 初代の写真に戻ってみましょう。

 

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 よく見ると、旗の掲げ方が今とは違って、ぎこちない感じもどこかあります(汗
 おそらく、当時の気分としては、国威発揚もあったのかもしれませんが、しだい、大きく見せるための飾りへと変化していったのではないかと思われます。
 これは、本場の布団太鼓のように巨大な親房を持たないゆえの美意識なのかもしれません。

 

 長々と書き散らしてしまいましたが、いずれにせよ、当時を知る貴重な取材となりました。
 情報や資料をいただいた方々、本当にありがとうございました〜。


 記事のまとめは、そのうちマンガでやりたいと思いますm(__)m

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2015/03/30 ちょうさのこと   admin

彫刻を見てみよう(西新町)

 日和佐八幡神社・秋祭りの太鼓屋台の彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第三弾。
 
 今回は、「西新町」であります。

 

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 西新町は、現在の桜町の屋台から“暴れ対策”として重く作り替えられました。素材は黒檀で、よく戎町と一位二位を争う重さであるといわれますが、おそらく骨格や材質上、西新町の方が重いのではないかと思われます。

 

 さすが二代目というのか、時代の雰囲気とでもいいましょうか、太平楽な時代を引きずった可愛らしいものではなく、かなり厳つくて洗練されたデザインであります。

 

 それでは詳しく見て行きましょう。

 

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まず正面。堂々とした竜であります。

 

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正面右側・東は、菊と金鶏。

 

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正面左側・西は、鷹と松。

 

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そして背面は、唐獅子二匹。


 ざっと眺めても見事な作りであります。


 木鼻こそ獏から変更されましたが、初代同様、尾垂木が突き出ていて、堺型の原型はきっちりと受け継いでおります。
 西新町最大の特徴は、丸桁(がぎょう)にも狛犬がくっついていて、その数、木鼻と合わせると16匹も睨みをきかせてガード万全!であります。

 

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 この丸桁には、烏帽子ひらたれを引っ掛けるという便利な役割もあります。芸の細かいことに、長押の部分には、日和佐らしく亀。

 

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 改めて、彫刻を眺めてみましょう。

 

 正面右側・東は長寿でも願っているのか金鶏と丸桁にはカニ


 正面左側・西は力を誇示するかのように鷹と丸桁にはトンボ

 

 背面は二匹の唐獅子がかぶりついて一塊となっており、たぶん「太極」の状態を表しているものと思われ、まじまじみると背面は唐獅子が10匹もいるという全面唐獅子の奥河町もびっくりの彫物であります(汗

 ちなみに丸桁には蝶

 

 さらに目を凝らすと、組物ひとつひとつにも細かな彫りがあって、恐るべし美意識であります。
 第一印象は最後にやってくるとは言いますが、こうしてみると、やっぱり桜町の初代と西新町の屋台は、形は違っても姉妹だなぁと思うわけです(;´Д`)

 

 彫刻に関係はないのですが余談として――、
 嘘か本当か、西新町のちょうさには天井があって、昔はオスだったのではないか?と言われておりますけれど、真相は不明。


 桜町の記録では、当時から天井もなくメスだったようなので、もしかするとデザイン変更というよりは性転換?!という疑惑もありますが、そのへんは、戎濱を取り上げる際、触れてみたいとおもいますm(__)m

 

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禰宜も大好き?西新町

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2015/01/24 ちょうさのこと   admin